安息日を守る

「イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」(レビ記23章2~3節)

「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。七年目は、地の全き休みの安息、すなわち主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。」 (レビ記25章2~5節)

 神様は六日働いて七日目は休みなさいと命じられました。七日目には休んで肉体の安息、主を礼拝してたましいの安息を得るためであります。古代イスラエルの地は肥えた土地ではなく化学肥料もない時代でしたから、安息日の律法は畑にも適応されて、六年間は耕作して収穫に与かり、七年目は土地を休ませるように命じておられます。これを守らなければ土地が痩せて行き、やがて不毛の荒れ地となるからであります。
 産業革命の後、近代的工業社会になりますと労働、生産性が向上して、人が豊かになる、これが人類、社会の善となりヨーロッパ社会を先頭に全世界がこの近代化に進んでいきました。産業の中心が、農業社会から工業社会に変わり、人が地方から都市に集中し生産性を上げ豊かになることが近代社会の中心になっていきました。もはや六日働いて七日目には安息して神を礼拝するという価値観、生活スタイルは目の前の豊かさから吹っ飛んでしまいました。人間疎外という言葉は古くなりました。本来人間は土地を耕し、収穫し、物を作る喜びを持っていました。しかし人間は機械に使われる身となってしまい人間がもはや主人公で無く機械のしもべになってしまいました。今回のコロナ騒動で自粛、家庭で待機、休校などが相次ぎ、トヨタでさえもラインを止めるという一大事件になりましたが、この休息の中で生産性の向上より大切なものを見出していきたいと思います。