「いっしょに」集まる幸い

聖書宣教会/聖書神学舎 赤坂泉

 予想を超える事態に直面して浮き足立ったのは、個人や行政ばかりでなく、教会も、と言えるでしょう。主日礼拝の整え方から教会活動の隅々まで、多くの判断を迫られました。神の民の優先順位と市民的な責任の引き受け方の両立とは、緊急事態宣言と自粛要請の中でなす教会の主体的な選択は、と神を愛し、隣人を愛する具体的なあり方を祈り求める日々が続きます。
 ヘブル10:25の「ある人々のように、 いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い(新改訳第三版)」という訳文は、教会の議論をあるいは助け、あるいは緊迫させたようです。改めて「いっしょに」集まることの意味を考えましょう。新改訳2017は「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう」と訳しました。細かな議論は措いても、「いっしょに」ではなく「集まり」に注目すべきことは明らかです。「励まし合い」を見落としてはなりません。また少し視野を広げて、19節からの段落にある三つの勧告に留意しましょう。信仰をもって神に近づこう。希望を告白しよう。そして「愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか(24)」です。25節の、集まりを止めないで、励まし合うようにという勧めはこの第三の勧告に従属しています。つまり、いっしょに どのように集まるかがこの箇所の中心的な関心ではありません。神に近づくこと、希望の告白に生きること、とりわけ愛と善行を促し合うことを勧告しており、そのために集まり、励まし合おうというのです。しかも、3:13に「日々互いに励まし合って」とあったように、主日の礼拝や特定の集会だけのことではなく、日々のことです。

 確かに教会は「一つになって」あるいは「同じ場所に」(使徒1:15 , 2:1 , 44 , 47 … )集まりました。しかし、困難や迫害によって散らされると「みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」(cf.使徒4:29,31、6:7、8:4、12:24…)のでした。パウロの宣教の足跡からも、一つの場所に集まった教会、家々に集まった教会、少人数の集会など多様なあり方が窺われます。
 こうしてみると、どのように集まるかは副次的なことです。形態ではなく、集まる目的に焦点を合わせましょう。この事態にあって、愛と善行を促すために互いに注意を払うこと、そのために集まり、そのように励まし合うことが大切です。
 こんにち、私たちには多様な手段が備えられていることを神に感謝します。一堂に会することは幸いです。顔と顔を合わせ、手と手を合わせるなかでいただく励ましがあります。同時に、インターネット等を介して「集まる」ことも幸いです。礼拝や祈祷会の「出席」がむしろ増えているという事例も聞きます。未信の家族が礼拝に連なり、多忙を理由に諦めていた教会員が次々に祈祷会に連なる。このときならではの幸いも数えましょう。集まること自体ではなく、愛と善行を励まし合うこと、神を愛し、隣人を愛する日々の現実を励まし合うことが目的であるなら、それを実現する手段はもっとありそうです。
 ヘブル書の「ある人たち」がなぜ集まりを止めるようになったのか確かな情報はありませんが、(例えばローマ帝国による迫害のような)予期せぬ困難に直面して、という説は有力です。キリスト者を、信仰と希望、愛と善行から遠ざけようとする力に屈したのでしようか。私たちは困難に屈するのでなく「むしろ励まし合いましょう。」巷間には「自粛警察」のような愚かさばかりでなく、寄付やボランティアのような愛と善行の具体的な兆しも見られます。キリストの民こそ率先して地の塩、世の光として働きたいと思います。
 そして「コロナ後の世界」を展望しましょう。社会生活も経済も、政治も国際情勢も、あらゆる面で激変を見るのでしょう。直面するのが何であっても、信仰をもって神に近づき、希望を告白し、そして「愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。」そのために教会の「集まり」がいよいよ用いられますように。