我、教会を信ず

福音伝道教団/東京基督教大学准教授 篠原基章

 「百年に一度の危機」とされる新型ロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的な拡大は、私たちの日常を大きく変える程の影響を及ぼしています。教会も少なからず変化を余儀なくされています。多くの教会は教会堂に集まることを一時的に止め、オンライン礼拝に切り替えるなど様々な対応を迫られています。しかしながら、教会堂が閉ざされたとしても、教会は決して閉ざされることはないのです。別言すれば、どのような状況下にあっても、教会が存在することを止めることはないのです。
 私たちは教会というと、屋根の上に十字架のついた建物を思いおこすかもしれません。しかし、それは教会堂であって、それ自体が教会ではありません。教会は「キリストのからだ」(エペソ1章23節)であり、教会のかしらであるイエス・キリストにあって集められた群れそのもののことです。それゆえ、教会は私たちが行く場所ではなく、私たち自身が教会そのものであることを思い起こしたいのです。私たちひとりひとりが教会の生きた部分であり、霊の家を構成する「生ける石」であるのです(Ⅰペテロ2章5節)。

 感染予防の一環として、「ソーシャル・ディスタンシング」(社会的距離の確保)が重要だとされていますが、世界保健機構(WHO)はこれを「フィジカル・ディスタンシング」(物理的距離の確保)と言い換えています。「社会的距離」という表現には、人と人のつながりという最も人間らしい社会的側面を断っというニュアンスが含まれてしまうことを危惧してのことです。教会は互いに物理的距離を確保する必要に迫られていますが、これが「スヒ。リチアル・ディスタンシング」を生んではならないでしよう。物理的距離が強調される今だからこそ、私たちがキリストにあって一つのからだとされているという霊的現実を思い起こしたいのです。
 キリスト者は互いに離れていたとしても、互いを自分の一部として感じ、祈りに覚えることを通し、互いに仕え合うことができるのです。
 エペソ書は、教会はキリストのからだであり、「すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところ」(エペソ1章23節)だと教えています。コロナ禍にあって、教会の活動は様々に制限され、自粛を余儀なくされているように見えます。一見、教会の働きは停滞しているように思われます。しかし、教会に与えられている生命はひとりひとりのキリスト者によって、確かに今もなお社会全体に差し出されているのです。私たちの生活の場、働きの場こそが教会の最前線であることを覚えたいと思います。信徒はキリストの祭司性に与っており、それぞれの場にあって、それぞれの職業に従って、この世の真只中で神に霊的な犠牲を捧げ、そのことによってキリストのからだなる教会を建て上げるのです(Iペテロ2章5節)。教職者は聖徒たちをこの奉仕の働きのために整える召しをこの時も受けています(エペソ書4章12節)。

 私たちは公同の教会を信じています。公同とは普遍的であるということです。すなわち、私たちは時間と空間を超えたーっの普遍的な教会を信じています。しかし、それと同時に教会は特定の歴史的且つ文化的な存在です。キリストは私たちの歴史の中に受肉されました。そして、教会もまた歴史の中に受肉するようにと召されています。キリスト教の歴史は特定の時代、特定の文化に生きた教会の歴史だともいえます。今、教会のバトンは私たちの手に託されています。危機は強さと弱さをあらわにします。ポストコロナ時代を見据えつつ、神のことばに固く立ち、変えてはいけないものと変えてもよいものを見分ける洞察力が与えられるように祈り求めたいと思います。
 百年に一度の危機にあっても、教会は教会であることをやめることはありません。それは、教会のかしらなるキリストが世の初めから終わりまで、ご自身の教会を集め、守り、保たれるからです。教会は、聖霊の力によって、この困難な時代にあっても希望に満たされ、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和を証し続けるのです。「神のことばとイエスのあかしとのゆえに」(黙示録1章9節)。