遠隔礼拝における聖餐

日本同盟基督教団/東京基督教大学講師青木義紀

はじめに
 今般の新型コロナの影響で、多くの教会がインターネット等を利用した遠隔礼拝を行っています。そのような遠隔礼拝の中で、聖餐を行うことの是非が問われています。そもそも聖餐には、キリストにある信仰者の一致が表されていますが、皮肉なことにプロテスタント教会では、その最初期からこの教理をめぐって一致を見出せなかったという残念な歴史があります。今回の課題をめぐっても、おそらく賛否両論様々な意見があり、一致を見ることは難しいだろうと思います。それぞれの立場を尊重しつつ、福音派諸教会と、そこに生きる牧師と信徒の皆さんにとって、改めて聖餐の本質を問う契機となり、それぞれの神学的確信に立って聖餐がふさわしく執り行われることを願うものです。

1.聖餐において大切なこと
 聖餐において大切なことは、①主の御言葉、②主の指定した物質(パンとぶどう液)、③主の意向の三つです。
 第一に、主の聖餐制定の御言葉がきちんと読まれることです(マタイ26:26-29、マルコ14:22-25、ルカ22:14-20、Iコリント11:23以下など)。第二に、主が指定された物質であるパンとぶどう液が使われることです。パンでないものや、ぶどうの実で作った液体でないものが使われないということです。第三に、主が聖餐を制定された意向を踏まえてこれが執行され、会衆もまた主の意向を踏まえてこれにあずかることです。要するに、主が語られた通りに、主が指定された物質を使って、主の望まれる聖餐が行われることです。それに先立って、私たちの思いや都合が優先されてはならないのです。

2.一つの体にあずかること
 聖餐において重要なことは、一つのパンと一つの杯から分けられたものに、それぞれがあずかるということです(Iコリント10:16-17)。遠隔礼拝で聖餐が行われる場合、各自がそれぞれにパンとぶどう液を用意するのではなく、教会で分餐したものを届けてもらう方が良いでしよう。もしそれが困難であれば、メーカーや商品を指定して、せめて同じ味のパンとぶどう液にあずかるようにしたら良いのではないかと思っています。

3.聖別の課題
 聖書には、イエスが「パンを取って」から神をほめたたえてこれを裂いたと書かれています(マタイ26:26)。
 「杯を取って」から感謝の祈りをささげたと言われています(マタイ26:27)。聖別において重要なことは、聖別の対象を明確にすることです。その点で、遠隔礼拝における聖餐では、この点が曖昧になる可能性があるので注意が必要です。信徒が、聖別されていないパンとぶどう液にあずかることがないように、執行者は十分に気を付けなければなりません。


4.「ふさわしい者」の吟味
 聖餐において重要なことは、聖餐にあずかるべき者があずかり、そうでない者があずかることのないようにすることです。これは、主のさばきを身に招くことのないよう、会衆を守るためにも重要なことです。このために司式者は、相当の神経を使います。しかし遠隔礼拝における聖餐では、この点で執行者から会衆が十分に見えないという難しさがあります。かなりの部分を会衆にゆだねることになります。会衆の主観に任せるだけでなく、より客観的な吟味のために この点をどう克服し、聖餐をふさわしく執行するかは、今後の大きな課題だと思います。

むすびにかえて
 私自身は、しばらくの緊急事態の期間は、聖餐を控える方が賢明だと考えています。教会も個人も、通常の生活が確保できない非常事態の中で、不用意に聖餐を行って、思わぬ失敗を犯したり、主の御心を損なったりすることを何より危惧するからです。しかしこれが長期化し、一年も聖餐にあずかれないという事態が生じることは避けるべきだと思っています。むしろ、御言葉の約東をますます確信させる聖餐が、ふさわしく行なわれることによって信仰者が希望を見出し、福音の約東に立ってこの困難を乗り越えていくことを何よりも願うものです。