バベルの塔の出来事から学ぶ

「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東の方から移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。『彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。』こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」(創世記11:1-9)

 コロナウイルスの感染拡大を防ぐために国を封鎖状態にし、町も封鎖しています。世界の物流がストップしたのですから産業には多大な痛手です。18世紀の産業革命以来生産の効率化は極限にまで発展しています。近代社会は、物の流れ、人の流れ、お金の流れ、情報の流れを極限まで自由に高速化させて生産を上げて利潤を追求しています。船舶や航空機、トラックや鉄道で物資が世界中を大量に高速で駆け巡っています。そのために関税などの障壁を撤廃する条約が結ばれます。人の動きも航空機などのハードな面とビザなしの渡航という協定も結ばれ国境の壁が低くなり世界中自由に人は移動できるようになりました。お金の決済も、情報もネットで瞬時的に行われるようになり世界が一つの工場のように連動して生産を上げています。
 今日コロナウイルスの感染防止のために各国は江戸時代のキリシタン禁制のようにウイルスの侵入を阻止するために鎖国を行い、町も関所を設けて往来ができないように封鎖が世界では行われています。これは産業界にとっては多大な痛手であります。言語が一つでコミュニケーションが整ってレンガの加工の技術、アスファルトの技術を得た人類が天に届く塔、神様を押しのけて自分たちの技術を神様にする町、文化を建てようとしている状況と類似しています。

 鎖国が解かれ関所が撤廃され往来、コミュニケーションの障壁のなくなることは素晴らしいことであります。バベルの時代の以前は言葉が一つで外国語を聞く不便はありませんでした。その便利さで彼らは技術を向上させレンガを焼く、アスファルトの使用で生活が便利になり神様をあがめ感謝すればいいのですが、神様を押しのけて人類の技術の進歩を至高の価値とし、それを誇る世界を作ろうとしたとき言語の混乱という神様からの介入が起こりました。今回のコロナ騒動もこの物流のネットワークが分断され世界の巨大な工場が操業停止に追い込まれています。一体、バベルの塔と現代社会にどのような共通点があるのでしょうか。
 バベルの時代の人々は技術を進歩させ、自分の名を挙げ、神様の座に自分の能力を置き、能力がすべて、最高という文化を目指していました。今の高度情報化時代の至高の価値観は神様を礼拝し、神様に従うのではありません。経済性を高め、技術を高め、利潤を上げることであります。その結果何が起こっているか。貧富の差の拡大であり、人間が部品の一つのようになり、不要になれば消耗品のように捨てられてしまう人間の価値が見失われています。土地や人件費の安い低開発国に部品の製造工場ができ、低賃金で働かされ、仕事がなくなれば派遣社員は安易に首を切られることが普通の社会になってきました。極限まで収益性を求めていますので経営者には巨大な資金が集まりますが、労働者の貯蓄が少ないことは危機に弱い社会を作り出しています。日本、アメリカ、中国の国内でも貧富の差が激しくなり、また国際的にも豊かな先進国と貧しい低開発国の差がさらに拡大していきます。コロナ事件はこのような社会への大きな警告と言えます。