インターネットを用いて「礼拝する」とは

ウェスレアン・ホーリネス教団/ウェスレアン・ホーリネス神学院 山田泉

「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」(詩篇100編1〜3節/新共同訳)


 新型コロナの感染者数が東京で目に見えて増加した3月、その少し前から礼拝出席を控える方が起こり始め、それに伴い、多くの教会でインターネットによる礼拝のライブ配信が始まりました。その後、緊急非常事態宣言の発表がなされてからは、インターネットを用いての礼拝はある意味必然なこととなりました。教会に集まれないという特殊なケースでインターネット配信での礼拝が主となる時、通常と全く同じ形で構わないのか、ということを考えさせられます。多くの場合家庭で、しかもクリスチャンは一人だけという中での周囲の遠慮、これがきっかけで教会に行ったことのない家族が一緒に視聴してくれた場合、すなわち新来会者のような配慮、いつも教会に出かけて礼拝をささげていた方の、礼拝の心備えに対して、何らかの考慮をしなくていいのかと思い巡らします。
 実際教会は人々が礼拝に心を向けて集中しやすいように、神に出会い深い交わりに入れるようにと、伝統的に牧会的に配慮が尽くされています。たとえば教会での礼拝の導きについて挙げることができるでしよう。


(1) 礼拝順序
 多くの教会では週報の「礼拝順序」に従って礼拝が進められます。この順序は教派によって異なりましょうが、いずれにあってもその礼拝順序は単に項目の羅列ではなく有機的に構成されています。レイモンド・アバ『礼拝』 (日本基督教団出版)によると、「礼拝の基本的構造」としてく〈交互運動と上昇運動〉には、礼拝の順序には神から人、人から神の対話はキャッチボールのように交互運動があり、振子運動の図が描かれます。これに上昇原理が加わり、礼拝の進行と共に引き上げられ、らせん階段の図が描かれる。日曜日礼拝に向かう私たちは、社会での重荷や信仰の弱さの負目をひきずりながらかもしれないが、礼拝に身を置く時、神は私たちを養い、引き上げ、新しい力に満たして遣わしてくださる。

(2) 五感を用いて
(教会は人の五感に働き、その心を神に向けるように助ける)、たとえば、
視覚:教会の建物、整えられた玄関・受付、礼拝堂の趣、講壇の立派な聖書、生花、典礼色など
聴覚:奏楽のオルガンはその日の礼拝の内容を示し、賛美歌、聖書朗読、メッセージ、祈り、など
触覚:記名帳、週報ボックス、聖書、賛美歌、いつもの椅子、聖餐式のパンと盃、など
味覚:聖餐式のパンとぶどう液、お茶や食事、など

嗅覚:プロテスタントには殆どないですが「お香」がその日の意味を知らせる、教会の空気、など
そして何より愛兄姉との交わり、教会の先生からの声かけや握手など、生きた命の交わりが教会の礼拝にはあります。


 インターネット等に託する礼拝は可能性を多く含みつつ、届けられないものも多くあります。試みの一例として
・時間短縮:賛美を1曲
・交読文を省略、メッセージを通常より少し短くする。
・機材の補充:従来の音響設備では聞きづらい、フリーズするなど、物理的に届かないことがある。
・情報:聖日前後の資料等の送付
・そして何よりも聖霊の臨在、聖霊の働きを強く祈ること。実際に距離があり、同じ空気を吸うことができない状況で、時空を超えて臨在してくださる聖霊による一致を、今までに増して祈る。


 聖霊の働きにより、家庭にて一人で礼拝をするのであっても、「主の祈り」で教えられたように「我ら(わたしたち)」と祈ることを体験し、「昔いまし、今いまし、永遠にいます主をたたえる」礼拝に共にあずからせていただけることを思います。
 今後、このような事態ではなくても、それぞれの生活に応じてインターネットによる礼拝が用いられることが考えられます。祈りつつ、模索しつつ進んでまいりたいと願います。