2020年5月6日(水)祈祷会用参考資料

ハイデルベルク信仰問答
問13 私たちは、自分で、それを償うことができるでしょうか。
答え 到底できません。反対に、私たちは日ごとに、自分の負債を大きくしているのであります(ヨブ9:3、ローマ2:4-5、マタイ6:12)。

《A.ペリーによる解説》
 人間が、第一に考えるべきことは、自分の力を調べるために、自分自身に集中することである。莫大な不渡手形に直面しても、人間はそれを弁償できる、という幻想をいだきつづけている。
 これが贖罪という概念の起源である。人間は神のために何かしたいと欲している。また、人間は自分の負債を支払いたいと願っている。このようなことは、「諸宗教」が人の心の中に生きつづける幻想である。なんとかして、すべての諸宗教が神に対する負債を完済することによって、人間に役立とうと企てている。福音的キリスト教は、一つの宗派ではない。福音的キリスト教は、贖罪に関する人間の学説ではない。それは、パウロがユダヤ教の中で、またルターがローマ・カトリックの中で学んだことである。使徒パウロが、福音は「信ずる者にとって救いをえさせる神の力であり」、「信仰による義人は生きる」(ローマ1:16)と言い、ルターは「神の栄光は、罪人が恵みのうちに入れられる時、すべての輝きをあらわす。それは私たちに祝福を与える神の栄光である」と言っている。カルヴァンは、「信仰とは、福音において差し出された義を受け入れる」ことである、と積極的に語っている。その場合、使徒と改革者は、イエス・キリストの福音に対して確実に一致している。すなわち、〔彼らが〕人は神の義を満たしえず、己が負債を支払うことができず、自分以外から助けられねばならない、という点で一致するのである。支払い不能者は、独力で、債権者に支払うことはできない。〔いうなれば〕溺れる者は、自分の髪をひいて自分を引き上げることはできない、ということである。
 「善き」行ないは全く無用である。それらは悪い行ないの埋め合わせにもならない。それらは帳尻を合わすこともできない。私たちの行為は、すべて呪われ汚れている。私たちはただ一つでも、純粋な行ないをなしえない。すなわち、ただ愛によってのみ動機づけられた、完全な、利他的な行為を生み出すことはできない。私たちが行なうことは、私たち自身の根深いエゴイズムと自負のしるしをおびている。そのようなことは、私たちの悲劇的な状況であり、正しいことをなさんと欲している時、とりわけ、私たちが自分を救うために正しいことを行おうとする時、私たちは、ただ、己が負債を増し加えるのみである。それゆえ、イエスは「義人を招くために来たのではなく、罪人を招くために」来たのである(マタイ9:13)。このことは、自分の努力によって、自分を救い出さんとした試みを投げ捨てる人々と、神の恵み以外のものに頼るものがないという人々に重要な意味をもっている。私たちがこの賜物を受け入れないかぎり、私たちは、日ごとに、自分の負債を大きくしているのである。

 私たちの善き行ないや善き意志は、ただ、相対的に、善であるということを明確に理解することは重要なことである。神は完全を望んでいる(マタイ5:48)ので、私たちの行ないは、どんな方法によっても、神を満足させるためには役に立たない。すなわち、私たちの行ないは、自分に向けて、もう完全に返済は完了したのだ、と言わせることはできない。
 福音の中には、神が私たちの善き意志、善き業、立派な努力を考慮する、と言っているところはない。「それは、努力して立派に舗装する地獄への道であり、天国への道ではない」(ジャン・ド・ソッスル『ハイデルベルク信仰問答に基づく高等宗教教育教本』10頁)。
 神が人間を考慮するただ一つのことは、人間の悔改めである。すなわち、自分自身の罪責と人間的無力さの認識ということである。私たちの善き業が、神のお陰であることは絶対的なことである。善き業はそれ以上の何ものでもない。