2020年5月20日(水)祈祷会 参考資料

ハイデルベルク信仰問答より

問14 
単に、他の被造物にすぎないものが、私たちのために償うことができるでしょうか。

答え 
何ものもできません。先ず第一に、神は人間の負債のゆえに、ほかのどんな被造物をも罰することを望んではおりません(エゼキエル18:20、ヘブル2:14-15)。加えて、全く被造物にすぎないものが、罪に対する神の永遠の怒りの重荷をこらえ、ほかの者をこの重荷から解き放すことは、できないのです(詩篇130:3、49:7)。

《A.ペリーによる解説》

 人間自身が償うことはできない。それでは、ことによったらほかの誰かが、別の被造物が人間のために償えるでしょうか。異教やユダヤ教では、犠牲の動物が人間のために、償い、犠牲になるという。ローマ・カトリックは、聖者が償い、贖うという。その上、ある被造物が彼らの善き業や徳によって、救いに対して負っている恵みに、ある程度値するという。この不謹慎が「償いという宝」に功績というものをつけたすのである。いつも神は、被造物のあまりに重すぎる負債のために、用いることのできるわずかの栄誉を、意のままに処理しようとしている。これが功績の転移というカトリックの教理である。
 「恵みに関する教会の宝は、キリストと聖徒たちの溢るるばかりの贖いの業から生まれる。これらの業はその価値を失わず、それを造り出す者以外には役立たない時でも、教会の頭によって定められた慣用主題によってそれらは教会の宝となり、かくして、贖宥の力として聖者との交わりに益する」のである(ベルンハート・バートマン『教理神学概論』第二巻452頁〔ドイツ語原本表題『教理学教本』第二巻〕)。
 私たちは、途方もない幻想と呼ばれるこの教理の中心に、人間が神に対する大きな負債を償う力がある、と考えている事実を見出すのである。もし、このことが、すべての人間にとって真実であるとするなら、少なくともある者は栄え、他のものは剰余金の受取人である。
 プロテスタンティズムは、このような誤りから決して安全ではない。改革派教会のメンバーが恵みによる救いを信じなくなると、それに比例して、彼らは自分の信仰に功績の概念を、再び導き入れる。義務ではないけれども、プロテスタントの業は、にもかかわらず真実である。それでもなお、私たちはなんとかして、神を満足させるべきであると考えている男女を見出すことであろう。だが、現実に、神がイエス・キリストにおいて存在するものとしてご自身を現し、神が人間の想像の産物であることをやめる時、神が恵みをさしおいて、ご自分と他の誰かと取引きしないことは、すぐ明らかとなる。

 イエス・キリストにおいて、生ける神は私たちにご自分の神聖さを知らせる。神はご自分の前で、聖者の称号に値する権利を主張できる者は一人もいない、と啓示する。最もすぐれた「聖者たち」も、最も尊敬された「聖者たち」も、聖なる神に対しては負債者であり、依然として負債者でありつづけるであろう。彼ら聖者は、他者のために何も供給できないばかりか、自分自身の負債をも支払うことができないのであり、誰かが彼らのために償うことが必要である。
 それゆえ、聖者と聖母マリヤ崇拝は一つの詭計にすぎない。彼らは私たちと同じように、取るに足らない者たちであり、どのような方法によっても、私たちを救い出せない人々であるから、彼らに乞うことは無駄なことである(詩篇49:7、マタイ25:8-9)。否、彼らは責任ある罪の創始者である。彼らは審理され、告発される者である。彼は自分の誤りに対して立って答えねばならない者である。

 もし、彼らがそのようになしえないなら、すべてのものが同じ状況にあるため、他の人に頼ることは無用なことである。だから、外部から来る助けなしに、その状況から自分を救い出せないのは極めて明らかである。イエス・キリストは私たちにこのことを理解させるために来られたと同時に、救いをもたらすただ一人の方である。