2020年5月24日(日)週報掲載記事

「コロナ問題を聖書から考える」

 先月、滋賀県の草津で伝道牧会をしている叔父(T牧師)から『ヨブ記を読む』という冊子が送られてきました。いのちのことば社が発行している月刊ディボーションガイドブック『マナ』に連続掲載されていたものを校正してまとめ上げたものです。その序文に現在この世界が直面している「コロナ事件」を聖書的に捉えていくうえで参考になる文章が書かれていましたので、本人の許可を得たうえで此処にご紹介いたします。首都圏でも緊急事態宣言が解除される可能性が出てきていますが、仮に終息に向かったとしても忘れてはいけないことがあると思いますので、記録に留めておこうと考えた次第です。

〔全3回〕
①バベルの塔の出来事から学ぶ
②安息日を守る
③地球温暖化と循環型社会の確立のため

①バベルの塔の出来事から学ぶ

「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東の方から移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。『彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。』こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」(創世記11:1-9)

 コロナウイルスの感染拡大を防ぐために国を封鎖状態にし、町も封鎖しています。世界の物流がストップしたのですから産業には多大な痛手です。18世紀の産業革命以来生産の効率化は極限にまで発展しています。近代社会は、物の流れ、人の流れ、お金の流れ、情報の流れを極限まで自由に高速化させて生産を上げて利潤を追求しています。船舶や航空機、トラックや鉄道で物資が世界中を大量に高速で駆け巡っています。そのために関税などの障壁を撤廃する条約が結ばれます。人の動きも航空機などのハードな面とビザなしの渡航という協定も結ばれ国境の壁が低くなり世界中自由に人は移動できるようになりました。お金の決済も、情報もネットで瞬時的に行われるようになり世界が一つの工場のように連動して生産を上げています。
 今日コロナウイルスの感染防止のために各国は江戸時代のキリシタン禁制のようにウイルスの侵入を阻止するために鎖国を行い、町も関所を設けて往来ができないように封鎖が世界では行われています。これは産業界にとっては多大な痛手であります。言語が一つでコミュニケーションが整ってレンガの加工の技術、アスファルトの技術を得た人類が天に届く塔、神様を押しのけて自分たちの技術を神様にする町、文化を建てようとしている状況と類似しています。

 鎖国が解かれ関所が撤廃され往来、コミュニケーションの障壁のなくなることは素晴らしいことであります。バベルの時代の以前は言葉が一つで外国語を聞く不便はありませんでした。その便利さで彼らは技術を向上させレンガを焼く、アスファルトの使用で生活が便利になり神様をあがめ感謝すればいいのですが、神様を押しのけて人類の技術の進歩を至高の価値とし、それを誇る世界を作ろうとしたとき言語の混乱という神様からの介入が起こりました。今回のコロナ騒動もこの物流のネットワークが分断され世界の巨大な工場が操業停止に追い込まれています。一体、バベルの塔と現代社会にどのような共通点があるのでしょうか。
 バベルの時代の人々は技術を進歩させ、自分の名を挙げ、神様の座に自分の能力を置き、能力がすべて、最高という文化を目指していました。今の高度情報化時代の至高の価値観は神様を礼拝し、神様に従うのではありません。経済性を高め、技術を高め、利潤を上げることであります。その結果何が起こっているか。貧富の差の拡大であり、人間が部品の一つのようになり、不要になれば消耗品のように捨てられてしまう人間の価値が見失われています。土地や人件費の安い低開発国に部品の製造工場ができ、低賃金で働かされ、仕事がなくなれば派遣社員は安易に首を切られることが普通の社会になってきました。極限まで収益性を求めていますので経営者には巨大な資金が集まりますが、労働者の貯蓄が少ないことは危機に弱い社会を作り出しています。日本、アメリカ、中国の国内でも貧富の差が激しくなり、また国際的にも豊かな先進国と貧しい低開発国の差がさらに拡大していきます。コロナ事件はこのような社会への大きな警告と言えます。《次回に続く》

2020年5月17日(日)週報掲載記事

「牧師就任12周年に寄せて」

 私は、2008年5月11日のペンテコステ礼拝において、東伏見福音キリスト教会の牧師に就任しました。U先生、N先生、M牧師の三人から按手を受け、神学校出たての29歳だった私はその礼拝の最後に初めて祝祷を任されました。あれから12年という歳月が経過し、年齢としても一回りし、役員の方からサバティカル休暇を提案していただいていたタイミングで新型コロナウイルス感染症が勃発しました。自宅にこもる時間が多くなった今、この12年を振り返る貴重な時間が与えられています。
 2008〜2019年度の総会資料の「教状報告」を見直しながら、主の恵みを数えてみました。個人レベルでは、結婚、長男長女の誕生、二種の皮膚炎発症といった大きな出来事がありました。国レベルでは、東日本大震災と原発事故、新型コロナウイルスが二つの大きな出来事であり、後者は現在進行中です。教会レベルでは、大きな流れとしては土地の取得に向けての動きがありましたが、身近なところでは受洗された方、転入・転出された方、結婚された方、誕生された方、召された方のお名前が一つひとつ思い出されました。また、ここに書くことはできませんが、背後には多くの信徒の皆様との個人的関わりがあります。

 初代O牧師が務めた期間が8年(1994〜2002年)、二代目M牧師が6年(2002〜2008年)であったことを考えますと、三代目である私が東伏見の教会に仕えている年数もそれなりになってきたことが分かります。それと同時に、12年経つ速さに驚いてもいます。コロナ終息後は「ポストコロナ」と呼ばれる時代に入ると思いますが、主の教会の管理を任された者として、これまでに築いてきた基礎を崩すことなく、如何なる時代にも生き残れる「しなやかさ(柔軟な思考と折れない強さ)」を持つ教会を皆様と共に形成していきたいと思います。

2020年5月10日(日)週報掲載記事

「神学生サポートの重要性(その5)」

 今回で本テーマは最終回となります。

「すべての教会開拓者及び神学教育者が、そのパートナーシップの中心に聖書を据え、教理を表明する時だけでなく実践においても聖書を中心に据えることを私たちは切望する。伝道者は、自分のメッセージの内容及び権威の至高の源として、聖書を用いなければならない。神学教育者は、キリスト教神学の中核的科目として、聖書の研究を改めて中心に据え直し、聖書研究がその他のすべての研究・適用分野を統合し、またそれらに染み込んでいくものとしなければならない。何よりも、神学教育は、牧師・教師が聖書を説き明かし、教えるという最も重要な責務のために、彼らを整えることに役立つものでなければならない。」(『ケープタウン決意表明』p.91-92)

 次世代を担う神学生は、この多様化した社会にあって学ばなくてはならないことが多くあります。この度の新型肺炎に伴う緊急事態宣言など、思いがけない状況が訪れた際に、それをどう捉えどう対応するか、柔軟な思考と実際的力が求められます。しかし、現場で起きる多種多様な出来事は「応用」であって、「基礎」がなくては常に軸がぶれてしまうことになるでしょう。どんなときでも軸となるのは聖書のことばですから、常に聖書研究に戻り、同時に幅広い視野をもって社会現象を解釈していく力が養われる必要があります。その最前線で学んでおられる神学生を、教会は具体的な愛と祈りとをもって支えていきたいと思います。

2020年4月26日(日)週報掲載記事

「神学生サポートの重要性(その4)」

今回を含めてあと2回、本テーマで書かせていただきます。まずは『ケープタウン決意表明』より。

「神学教育の機関及びプログラムは、そのカリキュラム、構成、価値観を宣教の観点から監査し、それぞれの環境において教会が直面している必要及び機会のために真に役立つことが保証されるようにと、私たちは要請する。」(p.91)

 ここで言われていることは、解説も必要ないほど明瞭でしょう。学問のための学問ではなく、現場のための学問であることが求められているのです。イメージとしては、教会は神学生を神学校に派遣し、信徒の方がなかなか足を運んでまで学ぶ機会を持てない神学全体を学んできてもらい、それを教会の現場で応用していただくということです。
 私は先日、母校に電話をし、暫し校長先生とお話しする時間が与えられました。気づけば卒業して12年の歳月が流れ、時代も変わりました。私が在籍していた時期も学びはハードに感じましたが、その後、聖書信仰の分野においても日本の福音主義神学は進展し、2011年の東日本大震災やこの度の新型コロナウイルスといった重要な社会情勢の変化に対応するため、学ばなくてはならない内容がグッと増えたと聞きます。それに応じて講師陣も世代交代し、テキストも変わったそうです。もし私がこれから入学するとしたら、再び一からとは言わないまでも7割以上は学び直さなければならないでしょう。牧会の現場での経験によって成長させられた面があると同時に、学問の現場を離れたことによって入ってこなくなった多くの情報があることも実感しています。その意味で、これから学んでいかれる神学生を心からリスペクトし、私自身も初心に帰って知らないことを学び取りたいと思っています。教会の皆様にも同じ思いをもって支援していただければ幸いです。《次回に続く》

4月12日(日)週報掲載記事

「神学生サポートの重要性(その3)」

 今日を含め、あと3回「神学生サポート」について書かせていただきます。まずは『ケープタウン決意表明』からの引用です。

「神学教育は、あらゆる形の宣教の取り組みとパートナーを組む。聖書に忠実な神学教育を提供しているすべての人々について、その教育が公式的か私的かを問わず、また地域、国、近隣諸国地域、世界のどのレベルかを問わず、私たちは彼らを励まし、支援していく。」(p.91)

 ここでは、神学教育が単に牧師養成だけを目的としたものではないことが明らかにされています。宣教師の派遣団体、聖書翻訳協会、キリスト教に基づくNPO法人・保育・学校・福祉・医療・伝道団体など、神学は多岐にわたる分野の宣教的働きとの関わりを持ちます。事実、神学校には牧師を目指す人だけでなく、様々な団体の働きを担う器が送られています。そのような働きのためになぜ神学教育が必要かと言えば、その目的が主イエスの大宣教命令とどのように結びついているか、ベクトルを鮮明にしている必要があるからでしょう。それらの働きは「この世」との関わりを持っていますから、聖書的な判断を下すための目が必要なのです。
 神学校で履修する科目は、時に必ずしも現場の働きと直結しているように感じられないこともありますが、幅広い神学的マインドを養うための基礎づくりであることが多いのです。 《次回に続く》

4月10日(金)受難日に寄せて

 明後日のイースターに先立ち、受難日には主イエスの十字架の苦しみと死とを覚えて過ごします。本来受難礼拝を行なえることが望ましいのですが、そのイメージだけでもお伝えしようと思いました。
 昨年、敬愛するO先生が書かれていた受難礼拝の様子を参考に、私たちの教会でもいつかやってみたいと思っていることがあります。賛美・説教・信仰告白などの後、礼拝の締めくくりとして、燭台に立てられた7本のロウソクを、主イエスの「十字架上の7つのことば」の朗読とともに1本ずつ消していきます。そして、最後には真っ暗になり、主イエスの十字架の苦しみと私たち人間の罪深さを黙想します。主の憐れみを乞い求める祈りをささげた後、後奏と黙祷をもって終わります。この受難礼拝の中に聖餐式を取り入れ、最後の晩餐をイメージするとなお良いと思います。
 我が家では、子どもたちにも一食がまんすることを伝え、私も断食しつつ説教を書いています。不十分ながらも受難日としてこの日を過ごすことができればと願います。


≪十字架上の七つの言葉≫
①「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
②「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
③イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。(ヨハネ19:26-27)
④イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マタイ27:46、マルコ15:34)
⑤イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。(ヨハネ19:28)
⑥イエスは、・・・「完了した」と言われた。(ヨハネ19:30)
⑦イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(ルカ23:46)

3月22日(日)週報掲載記事

「神学生サポートの重要性(その2)」

 先週に引き続き、「神学生サポート」について書かせていただきます。『ケープタウン決意表明』から、神学と宣教との関係を考えます。

「A私たちのうち教会や宣教団体を導く者は、神学教育が本質的に宣教的であることを認識する必要がある。私たちのうち神学教育をほどこす者は、神学教育が意図的に宣教的なものとなるように保証する必要がある。というのも、学術機関において神学教育が地位を得るというのは、それ自体が目的なのではなく、世界における教会の宣教に役立つことが目的なのである。」(p.91)


 つまり、「学問のための学問」「知的好奇心」として神学を学ぶのではなく、「神の国の前進」「宣教」のために神学を学ぶ必要があるということです。よって、神学校が提供する学びの内容は、机上の空論で終わることなく、実践的な学びでなくてはなりません。その意味で、神学校で指導の任に当たる人は、現場を知っている人であることが望ましいのです。牧会と神学校の講師を兼任されている先生方の多忙さは想像に余りありますが、牧会の現場での経験が神学教育の現場での言葉となるのです。同様に、神学生も現場を深く知ることによって、学んでいる内容と宣教とが結びついたものとなるでしょう。それでいて、奉仕に忙殺されてしまわないよう、周りの配慮も必要です。《次回に続く》



3月15日(日)週報掲載記事

「神学生サポートの重要性(その1)」

 4月からいよいよK神学生のサポートをスタートしてまいります。私自身も神学生時代、多くの方から愛の支援をしていただき、改めて深い感謝の思いに溢れています。この度、神学生を支えるということが主の宣教の働きにおいて如何に重要であるかをお伝えしたいと思い、筆を執りました。『ケープタウン決意表明』の中に、その意味をよく説明している文章が出てきますので紹介させていただきます。

「ミニストリー、一致、及び成熟において教会が成長するために、聖書を教えることは不可欠である。この必要性を改めて確信し、その確信が神の全教会をとらえるのをこの目で確かめたい。キリストが教会に牧師・教師として与えてくださったすべての人々の賜物を、私たちは喜ぶ。神の言葉を説き、教える業のために、そうした人材を見出し、励まし、訓練し、支援するために、私たちはあらゆる努力をする。」(p.69)

「神学教育は、伝道の先にある宣教の一部なのである。地上における神の使命は、神の使命に仕えることであり、神学教育の使命は教会の宣教を力づけ、教会の宣教と共に歩むことである。神学教育は第1に、牧師・教師として教会を導く人々を訓練するために役立つべきであり、誠実さと妥当性と明確さをもって神の言葉の真理を教えることができるよう、彼らを整えるものである。神学教育は第2に、神の真理をすべての社会的文脈において理解し、また適切に伝えるという宣教の務めのために、すべての神の民を整えることに役立つべきである。」(p.90-91)

 直接献身する人が少ないこの時代にあって、東京ティラナスホールから器が興されていることを喜び、祈りつつ支えていきたいと思います。《次回に続く》

3月8日(日)週報掲載記事

「新型コロナウイルスの影響下にあって」

 中国の武漢を震源地として世界に拡がりを見せている新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響が、私たちの生活にも直接的に及んできています。首相の要請によって、この国でも3月に入ってから全国の小中高校が次々と休校になり、様々なイベントが中止され、マスクや消毒用アルコール、更にはトイレットペーパーなどまで不足し、国民の生活への影響はさながら、経済界も大打撃を受けています。予測のつかないことが起こる世界にあって、信仰者はどのように生きるべきなのでしょうか。
 私はこのようなとき、よく思い出す聖書の箇所があります。それは、バビロン捕囚に連れ去られたユダヤの民に対する預言者エレミヤのメッセージです。捕囚の現実を受け入れることのできない民に向けて、エレミヤはこの異国の地で民は忠実に歩み、生き残り、次の世代が祖国に帰還できるように、70年の苦難を耐え忍ぶよう励ましました(エレミヤ29:4-7,10-14)。70年というのは気の遠くなるような期間ではありますが、終りがあります。その間、民は支配者に逆らうのではなく、その場所で神の民として証の生活をすることで、民族的繁栄に至ると約束されたのです。私たちのこの現実も、収束の目処が立たぬ中にありますが、神の良いご計画を信じ、今できる精一杯の生き方に努めたいと思います。この時にしかできない何かがきっとあるはずです。